『プロジェクト・ヘイル・メアリー』
映画を見に行った。
良い物語は新しい景色を想像できなければならないが、もっとも硬い部類のハードSFはその想像の自由度を科学と技術の限界によって事前に何分の一にまでも潰してしまうことができる。要するに、制約が多いものは作りやすく、つまらないものにもなりやすい。一方で、ハードSFの魅力は現実に裏打ちされた豊かな論理の快感だ。結果として、科学的正確性の追求は一定の質と量までは論理の快感のために良い材料を提供するが、それ以上では作品をおもしろくなくしてしまう危険を有している。『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は少しやりすぎていると思うが、そこまでやりすぎているわけではない。科学的正確性の話はこの程度で十分だ。一般にこの程度で十分だが、この場合はさらにそうである;なによりも本人が認めているように、アンディ・ウィアーの作品は一にエンタメ、二にエンタメ、百までエンタメなのであるから。
そう、なによりもその話をしなければいけない。映画公開直後にアンディ・ウィアーは The Critical Drinker のポッドキャストに登場し、次のようなことを言った。
I never put any politics or messaging in any of my stories at all. There’s no deeper meaning; there isn’t even any symbolism, even non-political. There’s just no symbolism at all. My books are just purely to entertain.
“no symbolism at all” だそうである。一見、自分で自分の作品を激しく貶しているかのようにすら読める。どうしてこんな発言が出てくるのだろうか?
答えは2000年代から2010年代のアメリカにおける政治風土にある。それに至った経緯は私もよく知らないが、冷戦の終結は重大な契機のひとつだろう。ともかく起きたのは、左翼的な社会思想から経済的主張だけを外科的に取り除いたものが資本主義の中に急速に制度化されていき、対して一定のインテリ層がそれに反発したが、インテリである限りはおおっぴらに保守主義の側に立つこともできないから、だんだんと彼らは政治的なるものすべてから超越したような立場を取るようになった、というようなことである。あるいは2つのことはこの順番ではなくむしろ同時に起きたのかもしれない。ソーカル事件はその最初期の現象である。『政治的に正しいおとぎ話』もそうである。
このような中立主義者の層はかくして宙吊りのままでいたわけだが、2016年のドナルド・トランプ当選によって決定的に選択を迫られ、左翼の側に舞い戻った者と反動主義レジームの側に与した者とに分かれざるを得なくなった。つまり、『政治的に正しいおとぎ話』の作者はトランプを支持しない旨を明確に表明した一方、アラン・ソーカルは引き続きトランスジェンダーに関する研究を攻撃している、というわけだ。Or so one would think. しかし、生き残りがいるのである。
アンディ・ウィアーはその生き残りの一人だ。上掲した引用には彼の政治的立場が端的に表れている。小説『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は2021年に刊行されたが、序盤にいきなりサンフランシスコのヴィーガンを笑いものにする記述が入る。まるでタイムカプセルである。
だが、アンディ・ウィアーがどうやら気づいていないうちに、時代はすっかり彼を置いていってしまった。『プロジェクト・ヘイル・メアリー』はメッセージ性を欠いてなどいない。それは急激な気候変動に直面する地球を描き、それを科学で救ってみせている。生まれた星が違うほどに異なる相手とも言葉を、目的を、そして感情を共有できると説いている。現在のアメリカで起きている科学の露骨な軽視と歪曲、および世界的に広がる排外主義に照らしてみたとき、この作品が意図されたように脱政治的であることはありえない。日を追うごとに歴史的進歩が巻き戻されていくような今の情勢にあって、映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は今やホープパンクなのである。