『天空の城ラピュタ』
なんと恥ずかしい話だが、宮崎駿作品をどれひとつちゃんと見たことがなかった1。ちゃんとというのは、子どもの頃にテレビから流れているのをぼんやり見たり見なかったりした経験はあるからだ。金曜ロードショーである。テレビなんて見なくなって久しいが、あれはまだやっているのだろうか。スタジオジブリ作品と『ハリー・ポッター』を無限に回し続けていたのを幼心に心配していたが、今思えば単にそれらを放映したときだけ視聴率が顕著に高かったからとかそんな理由かもしれない。とある知り合いの『西暦3240年、イオンシネマ海老名にて』という短編はオタクが『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を西暦3240年になっても見続けているという話だ2。意外とそんなものかもしれない。
それで、恥ずかしいので『天空の城ラピュタ』を見た。
何よりも最初に、劇伴に久石譲がいるのはズルい、と思った。Gradierwerk の『多島海』vol.1 に巻頭言と小説『旅行者』を寄稿しているので、一応自分のことを物書きだと私は思っているのだが、文章にはそもそも劇伴なんて贅沢なものはないのである。映像は音楽を使って1秒単位でシーンの情緒を操作することができ、それが羨ましくてたまらない(「1秒単位」が誇張だと思うなら、『フリクリ』を見るといい)。私はどうしても情景が音付きの映像で浮かぶから、『旅行者』ではある一箇所で音楽の歌詞を引用して劇伴に代えた。そういえば、最近読んだ小説に村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』があり、またも恥ずかしいことにこれは初めて読んだ村上春樹だったのだが、彼もできれば小説に音がついていてほしいと思っていそうな作家だ。話がまた逸れた。とにかく、アバンタイトルからオープニング・クレジットに遷移するときの、音楽がかかるなり語りが神話の世界に入るあの感じが印象に残っている、というそういう話だ。エンディングも、主題歌だけが一足先に流れ出してから映像がカットする、あの余韻感が良かった。そもそも主題歌がいい。久石譲だから。ズルい。
アバンタイトルは真剣なトーンなのだが、オープニングが終わるとコミカルな感じが入ってきて、特に海賊から逃げる段はリアリティラインがぐんと落ちる。海賊が集まった民衆に手榴弾を投げるところなんかは現代のアニメだとありえなさそうなくらいノリが軽い。どれだけ真剣なメディアであるかという点について、この頃のアニメはまだ過渡期にあったのかもしれない。
さて、宮崎駿は当然に日本のアニメに莫大な影響を及ぼしたとされるのだが、宮崎駿以後のアニメの発展について考えるたび、その命題を強く懐疑してしまうところがある。きっとこういうことは批評家がとうに書き尽くしているのだろうけれど、近代の二大他者、女と自然をどう描くか、という話である。『天空の城ラピュタ』では、鉱山の親方と海賊の一味が睨み合って筋肉比べをしているという大変コミカルなシーンで、親方の妻が「誰がそのシャツを縫うのよ」と冷静に突っ込むくだりがある。全体的に女性の方が成熟しているような描き方をされる。海賊の一味は首領の女性を「ママ」と呼んでいて、特段幼く描かれている。この構図をそのまま自然のほうへとスライドさせれば、草木を乱暴にかき分けて科学の力を狂信的に求めるムスカ大佐は、愚かだというよりは、幼いのだと批判されているようである。
他者性そのものが持つ問題も当然にある。宮崎駿が女と自然を過度に神秘化していると批判するのは簡単だろう。だが、宮崎駿と2000年代以降のアニメの主流とを比較したとき、他者として向き合う中にも実に様々な向き合い方がありうるのだということに驚かざるを得ない。宮崎駿に影響を受けたとされる無数のアニメ作家たちは、一体宮崎駿の何を見ていたというのだろうか?一定の側面において宮崎駿の思想が右から左へと彼らを素通りしたのは間違いがない。国民的アニメ作家の座を継いだのは新海誠だということに最近はなっている。あり得ない話だ。日本のアニメが女と自然の少なくともどちらかを自己の側に引き込んで語れるようになったとき、はじめて私たちはポスト宮崎駿を宣言することができるだろう。